

2007年『善き人のためのソナタ』、2008年『ヒトラーの贋札』と、2年連続してアカデミー賞外国語映画賞を獲得し、世界の注目を集めるドイツ映画界から、再び壮大なスケールの作品が誕生した。1930年代、「ヨーロッパ最後の難所」として伝説と化していたスイスの名峰アイガーの北壁を舞台に、国家の大きな期待を背負って初登攀を目指す若き登山家たちの壮絶な挑戦を描いた『アイガー北壁』である。2008年スイス・ロカルノ国際映画祭にてワールドプレミア上映後、10月に本国ドイツで公開されるとロングランヒットを記録。かつてドイツがリードした<山岳映画>の伝統を継承しつつ、最新の技術を駆使し、無慈悲なほどの自然の脅威と極限に置かれた男たちの壮絶な闘いを克明に描き出す。

ベルナーアルプス地域の一峰で、ユングフラウ、メンヒと並ぶベルナーオーバーランド三山のひとつとして、スイスを代表する山であるアイガー。その北壁は、グランドジョラスのウォーカー側稜、マッターホルン北壁とともに、三大北壁と呼ばれ、最も困難なルートのひとつとして知られている。
1858年、アイルランドのチャールズ・バリントンらがアイガーを初登頂。その後、南西稜、北東稜、北東壁などが次々と登攀され、最後に残ったのが、高さ1,800メートルに切り立つ北壁だった。ヨーロッパでは、1930年頃までに高峰のほとんどが競うように制覇され、アイガー北壁は「最後の難所」とみなされるようになっていた。
1934年、ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガーがアイガー北壁に初挑戦。1935年8月21日には、同じくドイツのマックス・ゼドゥルマイヤー、カール・メーリンガーが挑戦するも、高さ3,300メートルの≪死のビバーク≫にて凍死、遺体で発見される。そして翌1936年、本作で描かれるドイツのトニー・クルツとアンドレアス(アンディ)・ヒンターシュトイサーらがオーストリアの2人のパーティと共にアイガー北壁に挑む。折りしもベルリン・オリンピックを目前に控えてナチス政権下のドイツが国家発揚に盛り上がるなか、ヨーロッパ中の注目を集め、その挑戦は始まった。

1936年7月18日、南ドイツのバイエルンからやってきたトニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサー(2人は当時23歳)、オーストリアからのヴィリー・アンゲラー、エディ・ライナーの計4名の若き登山家たちが北壁を登り始めていた。その10日ほど前、アンゲラーとライナーは、北壁下部を行く新しい抜け道をすでに偵察していたが、悪天候によりいったん下山。マスコミたちは“最後の難所の初征服”が近いことをかぎつけ、沸き始める。北壁の全貌が臨めるアイガー麓の高級ホテルには、ジャーナリストや観光客が詰めかけ、テラスに悠然と座りながら、北壁登攀の様子を眺めることができた。
その日、2組のザイルパーティは別々に北壁を登り始めたが、《赤壁》の下あたりで集合し、1本のザイルへと連なる。トップのヒンターシュトイサーが《第一雪田》へのトラバースに成功(後に「ヒンターシュトイサー・トラバース」と名づけられる)、4人は驚くべき速さで着実に高度を上げていったが、落石によるメンバーの負傷や悪天候に見舞われ、退却することができずに死亡してしまう。なかでもトニー・クルツの最期は、アイガー北壁登攀における最も痛ましい悲劇として人々に記憶されることとなった。

70年前に実際に起きた物語を映画化するにあたり、その撮影は容易なものではなかった。山でのロケーションでは、先に機材とスタッフをザイルで縛って登山して準備。その後、スタントらが登ってシーンの撮影に移るが、リアリティを追求するために数時間待つことなどはざらだった。その日のうちに、求めている空模様にならなければ撮影は翌日に延期。登るだけでも半日以上かかるというロケを何度も繰り返し、ようやくリアルな屋外シーンを撮ることができた。また、酷寒の北壁アタックシーンでは、キャストとスタッフが、実際の北壁同様の超低温に設定した巨大な冷凍庫に入って撮影を敢行。機材が凍ってしまうほどの過酷な状況の中、キャスト達は熱演した。自然の壮絶さを迫りくるほどリアルに描き出すことにこだわった映像、そして限界の状況下の友情と愛を描いた本作は、山岳ファンのみならず、すべての人々の心を揺さぶるに違いない。


ベルリン・オリンピック開幕直前の1936年夏。ナチス政府は国家の優位性を世界に誇示するため、アルプスの名峰アイガー北壁のドイツ人初登頂を強く望み、成功者にはオリンピック金メダルの授与を約束していた。山岳猟兵のトニー(ベンノ・フュルマン)とアンディ(フロリアン・ルーカス)は、難攻不落の山を次々と踏破し、優秀な登山家として知られ始めていた。2人は世間の盛り上がりに戸惑いながらも、《殺人の壁》と恐れられていたアイガー北壁への挑戦を決意する。
麓には、初登頂を目指す各国からの登山家や、世紀の瞬間を見届けようという報道関係者や見物客が集まってきていた。その中にはトニーのかつての恋人で、新聞記者をしているルイーゼ(ヨハンナ・ヴォカレク)の姿もあった。天候を待つこと数日。ある晩、トニーとアンディは北壁への登攀(とうはん)を開始する。彼らのすぐ後をオーストリア隊が追い、4人は快調に高度を上げていくが、メンバーの負傷や急な悪天候に見舞われ、彼らは想像を絶する状況へと追い込まれていく……。


Q:監督はオペラのプロデュースや、ミュージックビデオ、CMを手がけていらっしゃいますね。アイガーに関する映画を撮ろうと思いついたきっかけは何ですか?
A:この映画のアイデアを最初に思いついたのは、プロデューサーのボリス・シェーンフェルダーです。彼はこのプロジェクトの監督を探していて、私に脚本を送ってきました。トニー・クルツの物語は、すぐに私の心を捉えました。1つは、4人の男たちが山で繰り広げた、厳しい死闘だったということ。もう1つは、ナチの時代に登山がイデオロギーのために利用されたという歴史的な側面です。この2つの要因が組み合わさり、この物語を特にエキサイティングなものにしていると感じました。
Q:この物語の歴史的背景について、特に何が魅力的であると思いましたか?
A:1920年代から30年代にかけて行われた命懸けの北壁登攀は、非常に重要な意味を持っていました。人生に何の展望を持てない若者たちが、何らかのゴールに到達するために、山の麓までの何百キロを自転車で目指した。自分のためのゴールです。そのゴールのためなら、死んでもいいとまで覚悟を決めていた。これはナチ神話に出てくる模範と見事に合致します。こうした彼らの行為がイデオロギーに利用され、英雄的な行為とみなされるようになりました。KdF(ナチの歓喜力行団)を率いた人物の、「ドイツの若者は山との格闘で、たくましさと男らしさを身につけ、死に方を学ぶのだ!」という言葉にも表れているように、理念や神話のためにすべてを捧げ、必要ならば命をも犠牲にすること、これこそ「英雄的な死」であると持ち上げた。だからナチは登山に興味を持ったのです。これはドイツがウラル山脈に向けて行進を始めた小さな一歩だととらえることもできます。
Q:『アイガー北壁』は、過酷な状況で撮影されましたが、最大の問題は何でしたか?
A:映画撮影は決して楽なものではありませんでした。たとえ撮影現場がカフェであってもです。機材を運び込み、部屋を照明で照らし、俳優たちにメイクし、衣装をつけさせる。非常に限られた時間で多くの作業をこなさなければなりません。さらに、山では、すべてが2倍も3倍も大変になりました。わずかなセリフしかないシーンでも、作業には苦労しました。まず関係者をザイルで縛り、それから撮影現場まで登って行かなくてはなりません。着いた時点ですでに半日が経過しています。その後、現場での撮影のための準備を整える。設営が出来た途端、雨が降り始めたこともあり、フラストレーションがたまりました。ルイス・トレンカー(山岳映画の巨匠として知られるドイツの監督、俳優)とその仲間たちが映画を撮り終えるのに何年もかかったのには理由があったのだと思いました。
Q:「自分はいったいなんてことをしているんだ?」と思ったことはありましたか?
A:正直に言うと「その通り」です。特に悪天候で待機を余儀なくされたときはそう感じました。私のように我慢強くない人間にとって、待たされるのは苦痛でした。トニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサーがベルヒルスガーデンの山を登頂したシーンでは、太陽の光が欲しいと思っていました。日が照れば美しく華やかになり、本作の後半で繰り広げられる雪の中の死闘と対極になると考えたからです。1日目はどんよりとした曇りで、1日中待ちました。結局1フィートもフィルムを取らずに下山しました。2日目は、さらに雲が厚くなりましたが、2分から5分くらい、合間に少しだけ日が差し込んだのです。その間にそのシーンを撮影しました。撮影はうまくいきました。うまくいってくれなければ困るんですけれどね。それにしても、なかなか撮影に入れない、というのは、皆にとって、特に俳優にとって辛いことです。
アイガーで、ひどく落ち込んだことがありました。そのことを考えると、今でも胃がきりきりと痛み、惨めな気持ちになるくらいです。撮影作業がほとんど終わった頃、氷原で代役の俳優をヘリから撮影する必要が出てきました。プロデューサーたちがそのために再度資金を調達してくれたのに、その日は気温が高すぎました。気温が高いとアイガーでは落石の危険が出てきます。アイガー北壁の麓、クライネ・シャイデックに座り、太陽を浴びながら滅入る自分の姿をよく覚えています。必要なものはすべて揃っていました。真っ赤なヘリを2機、衣装をつけた代役の俳優にカメラマン…。けれど、気温が高すぎたのです。その資金は無駄になり、チャンスを逃してしまいました。映画というものは、内側に命を秘めた生き物です。そしてチャンスという要素は思いのほか大きい。特に山岳映画の場合、チャンスにすがるシーンが多いのです。

Q:『アイガー北壁』を見ると、この映画がカメラマンにとっては決して楽な仕事ではなかったことが想像できます。このプロジェクトはどんな挑戦でしたか?
A:私たちは本作で、とにかく可能な限りリアリズムを追求しました。登山のシーンにリアリティがなく、スタジオで撮影したかのように見える娯楽映画ではなく、『運命を分けたザイル』(2003年英)のようなドキュメンタリー映画をお手本にしました。この映画を見ると、まるでカメラがアルピニストたちと一緒に登っているかのような印象を受けます。戦闘の真っ只中で写すカメラマンのように。もっとも山岳映画のジャンルでは、このようなアプローチは新しいものではありません。往年の山岳映画の監督、アーノルト・ファンクやルイス・トレンカーなどは、ドキュメンタリー的な視線で山と向き合っていました。山岳映画は、大げさなほど崇高に仕上げるのが当然であった中で、彼らは人工的なものを作り出すのではなく、あるがままの姿を撮ろうとしたのです。私たちはドキュメンタリー的リアリズムを基本とし、手持ちカメラによる映像を選びました。このほうが荒っぽく撮れ、山のシーンにリアリティが増します。昔の時代を描いた映画は、その装置や衣装、ヘアスタイルなどで必然的に絵画のような華やかな雰囲気が出るものですが、そうした山以外の華やかなシーンにも負けず、荒々しい映像がかえって映える効果もあります。
Q:ドキュメンタリー的リアリズムとなると、現地での撮影ということになります。しかし、山での撮影は危険をはらんでいることで知られています。特に天候がそうです。落石、雪崩などによっても撮影が困難になります。かつての山岳映画の監督たちは、そういった事情により、撮影に何年もかかったと聞いています。
A:それに関しては当然、別の方法をとらざるをえませんでした。今日、何年もかけて映画を撮るという贅沢は許されません。それ以外にも、保険の関係で、出演者を拘束できる時間には限りがあります。そのため、私たちは計画を立てました。まず、代役と小さな撮影隊で山に登り、可能な限り当時の状況に近い天候の中で多くのシーンをあらかじめ撮影する。次に、山でも比較的危険の少ない場所や、撮影所に作り替えた冷凍倉庫で俳優に演技をしてもらっての撮影。そして、事前に撮っておいた山のシーンと合うように配慮しながら撮影を進めていきました。この計画は、とてもよかったと思います。山での撮影では、凍傷などの特殊メイクはうまくできなかっただろうと思います。また、山であらかじめ撮った映像も、他の場所では絶対に撮れなかったと思います。


多くの悲劇的事故を引き起こしたアイガー北壁─ベルナー・オーバーラントにある高さ1,800メートルに及ぶ伝説の岩壁-は、クライマーだけでなく、山とは無縁の人々をも引きつけ、何十年にもわたって魔法をかけてきた。世間の人々にとってアイガーとは、危険で登攀が困難で、しばしば犠牲者を出す山に他ならなかった。そうしたイメージが人々の記憶に焼きつき、なかなか払拭できない事実には驚かずにはいられないが、それも理解できないわけではない。
アイガー北壁の神話は、1930年代にさかのぼる。1938年7月に2人のドイツ人登山家アンデルル・ヘックマイアーとルートヴィヒ・フェルク、そして2人のオーストリア人ハインリヒ・ハラーとフリッツ・カスパレクが初登頂を果たすまで、合計9名のアルピニストがこの山で命を落としている。1935年の夏以来、トップクラスのアルピニストの間でアイガー北壁は「西部アルプスに残された最後の難所」と見られるようになった。こうした事実が、ドイツ、オーストリア、そしてイタリアのクライマーたちを引きつけたのだった。しかし北壁はもろく、落石の危険がつきまとい、天候も急変しやすい。それでも北壁を最初に制覇したいという熱意のあまり、壁の状態や天候が思わしくないにもかかわらず、登攀を強行してしまったのである。そしてこれが悲劇につながった。なかには、今日に至るまで謎に包まれている事故もある。しかも、クライネ・シャイデックにある快適で安全なホテルのテラスから一部始終をドラマチックに報道していたジャーナリストたちの目に、この悲劇が何日間にもわたってさらされ続けたこともあった。
一般の人々は、観光客用に整えられたインフラの恩恵を受け、北壁のロケーションを堪能することができた。アイガーほど、アルプスの登山史をリアルに、そしてシンプルに体験できるところは他になかったのだ。北壁の下に広がるハイキングコースやユングフラウ鉄道のおかげで、息をのむような現地の雰囲気を誰もが難なく味わえるようになっていた。アイガーヴァント駅では絶景を眺めることもできた。アイガーとは、垂直にそそり立つ円形劇場だったのだ。
第二次世界大戦前、アイガーほど激しい報道合戦が繰り広げられたアルプスの山は他になかった。新聞やラジオで報道されると、すぐにそれに関する本が出版された。それによって“勇敢なアルプス登山の英雄たち”は、成功した者も命を落とした者も、その名声をヨーロッパ中に広めることとなったのである。
この神話は、1999年から再び脚光を浴びるようになった。当時のルートで登る様子がテレビでライブ中継され、高い視聴率を記録したのだ。アイガー北壁では、次々と新しいルートや、より難しいルートが開発され、登攀自体は当時からすっかり変わってしまった。それでもアイガーでかつて起こった悲劇の物語が忘れ去られることはない。